仮説実験授業研究会

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仮説実験授業の授業書とは

※雑誌『たのしい授業』(1985年5月・創刊第2号/仮説社)の「授業書とは何か」より抜粋
 /『たのしい授業の思想』(1988年/仮説社)に収録

授業書と授業の法則性の追求

 授業書とは何か。「それは読んで字の如く,〈授業に用いる書〉だ」といえば,何となくわかったような気になるかも知れません。しかし,もう少し授業書というものの実態に即してわかりやすくいうと,授業書というのは,〈教案 兼教科書 兼ノート 兼読物〉で,〈その授業書に印刷されている指示そのままに従って授業を進めれば,だれでも一定の成果が得られるように作られているもの〉ということになります。
 こういうと,きまって「それは教師や生徒一人ひとりの個性を無視するものだ」とか「教育をオートメーション化するものでよくない」という意見が跳ね返ってきます。「教案は教師ひとりひとりがクラスの実用をふまえて作るべきものだ」というのです。一見するとそういう意見は全く正しいように見えます。じっさい,これまでの教育界はそういう考え方で支配されてきたのです。
 私たちは教育界におけるそういう常識を知らないわけではありません。そういう常識の存在を十分承知した上で,あえてその常識に反することをやろうというのです。そして「これまでの教育(学)はそういう常識にとらわれていたからほとんど進歩することがなかったのだ」といいたいのです。
 おそらく,昔は音楽の世界でも同じようなことがいわれていたと思います。しかし,いまでは誰も「音楽家が他人の作曲した楽譜を見て演奏するのは音楽の堕落やオートメーション化だ」という人はいません。「すぐれた音楽をききたければ,即興曲をきくよりも,すでに定評のある楽譜にもとづく演奏をきいた方がよい」ということは常識になっているのです。それに,同じ楽譜でも演奏家の個性や能力の差がでることも認められているのです。
 工業技術の世界でも同じことです。大昔はあらかじめ設計図を描かずに作ったものでも,今ではまず設計図を作って作業しますし,その設計図のパターンもだいたい決まっています。また医者が患者を診断するときも,医学界で認められたルールに従って,血圧や脈はくなどをしらべて患者を診ます。そして,学会でみとめられた治療法にしたがって注射し薬をあたえます。「ある薬に過敏な反応をする患者がいる」ということも多くの経験でわかっているので,そういう患者への対策も一定のルールにしたがってやることになります。開業医がいつも自分独自の思いつきで患者を診断したり,投薬したりしたら,それこそ恐ろしいことになりかねません。
 音楽でも工業技術でも医学でも,一人ひとりの演奏家や技術者や医者の,そのときどきの思いつきよりもはるかにすぐれた法則性が見つけられているのです。そこで,そういう処方箋にしたがうことがプロの道とされているのです。ところが教育だけはそうなっていないのです。それは何故でしょうか。教育の世界では生徒の興味をかきたてたり思考を発展させる上での一般的法則性などというものはほとんどないのでしょうか。
 そういう一般的法則性があるかないか,手をこまねいていてもわかりません。じっさいにそういう法則性があると考えていろいろな試みをやってみて,そういう試みがみな失敗したら,「そういう法則性はないらしい」とあきらめるより他ないでしょう。しかし,そういう努力をせずにきめてかかるのはまちがっています。

授業法則の研究と授業書の普及

 それではじっさいにやってみたらどういうことになるでしょうか。じつはこれはすでに実験ずみといってもいいのです。私たちはもう20年ほど前(*執筆時)からそういう法則性の研究をもとにして「授業書」というものを作るのに成功しているからです。
 私たちの作った授業書はどれも,文部省(*現在の文部科学省)の学習指導要領や検定教科書に準拠して作られたものではありません。そういうものとは全く無関係に,私たちが「これは教えるに値するし,十分効果的に教える事ができる」と思ったものを教材化してきたのです。ですから私たちはこれまでよく「そんな授業書を作るのはナンセンスだ」と批判されたものでした。「そんな授業書は,ただでさえ受験競争のはげしい日本の教育界の現場では何の役にも立たない」と批判されてきたのです。ところがです。私たちの作った授業書には,不思議なことにとても多くの需要があるので。なぜでしょうか。「授業書どおりに授業をすれば,それを使わないよりもたしかな成果が得られる」ということが,それだけ多くの人びとにみとめられたからというほかありません。受験や統制の圧力を気にしてもなおかつ,その授業書によって授業をやることに魅力があるわけです。
 たいていの授業書には,これまでのふつうの教科書や参考書にのっていないような興味深い問題がいくつものっています。だれでも好奇心をそそられるような問題を開発してあるからです。そこで,そういうとくに面白そうな問題だけをつまみ食いして授業をやろうという人も少なくありません。しかし,そのようにして授業書の問題をつまみ食いされると,あとでその授業書どおりの授業をすることができなくなってしまいます。そこで私たちは,以前から授業書が不用意にそういうつまみ食い専門の人たちの手に渡らないように配慮する必要に迫られてきました。ですから,授業書というのはまだそれほど多くの人たちに知られているとはいえません。しかし,最初の授業書が作られてから20年(*執筆時)もたてば,やはり口コミその他で授業書のことを知る人がふえてきているのです。
 そこで,はじめは仮説実験授業関係者の間だけにしか通用しなかった「授業書」という言葉も,今ではかなり広く使われるようになってきています。とくにこの2〜3年のうちに「授業書」と題する印刷物が仮説実験授業研究会の会員以外の人びとによって続々と出版されるようになってきているのです。(略)
 しかし,授業書という言葉の安易な普及は,せっかく授業書という言葉の得た信用をだいなしにしてしまう可能性も少なくありません。「授業書という概念は,これまでの授業研究運動のあり方を全面的に改革するための仮説実験授業の研究の中から生み出されたものだ」ということを知らない人の中には,「授業書」という言葉を,「教科書と同じことだがそのナウい表現」としてだけ使っている例もあるように思われるからです。

教育方法と教育内容の具体化

 それでは,授業書と教科書とはどこが根本的にちがうのでしょうか。
 教科書というと,昔から「教科書を教えてはいけない。教科書で教えることが大切だ」というようなことがいわれてきました。もともと「教科書というのは,学校で教えるべき教育内容を統制するために作られたもの」という考え方があったのです。そこで,「教科書に書いてある内容を教えるときには,教師ひとりひとりがその教科書の記述をうまく活用して教え方を工夫すべきものだ」と考えられていたのです。
 しかし,私の考えによると,教育内容と教育方法とは不可分に結びついています。どんなによさそうな教育内容でも,それをうまく教える方法が見つからなければ教えてはならないし,すぐれた教育方法が開発されれば,それまで到底教えることができないと考えられてきたことも,すぐれた教育内容になりうるのです。教科書で教育内容だけ決めて,「教え方は各自で工夫しろ」というのはゴマ化しというより他ないのです。
 そこで,私たちは,教育内容と教育方法とを不可分のものとして授業書というものを生みだしてきたわけです。そこでまた,授業書というものは,教科書のように安易に作ることができないことになります。ふつうの教科書は,「教師に教え方を工夫するように」とまかせるのが建前なので,教科書の筆者はいい教え方があるかどうかあまり考えなくてもすみますが,授業書の場合にはそうはいかないのです。ですから,授業書の場合は「文部省(*現在の文部科学省)の学習指導要領に準拠してそこに出てくる教材を全部授業書にすることができる」という保証は全くないのです。うまい教え方が発見されなければ,授業書にならないからです。
 授業書という言葉がこれまでのところ多くの人びとの信用をかちえたのは,そういう事情にも関連しています。私たちは,「何でもかでも授業書にできる」という考えを排除し,「本当にたのしい授業ができると保証しうるものだけ」を授業書にしてきたのです。だから,授業書という言葉は魅力あるものとなり続けてこられたともいえるのです。(以下,略)

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