なぜいま「たのしい授業」か (前 会代表:板倉聖宣) 〜2018.3
これまで「たのしい学校,わかる授業」という言葉はよく耳にしましたが,「たのしい授業」という言葉はあまりきかれませんでした。「学校は友だちがいて,休み時間があって,たのしいことがあるけれど,授業はたのしいなんていうことがない」という考えがあるからでしょう。もちろん「授業はわかればたのしくなる」という考えもあります。しかし,子どもにはおもしろいとは思えないようなことを,やたらにわからせようと努力するあまり,授業がかえって重苦しいものになっていることも少なくないのです。
人類が長い年月の間に築きあげてきた文化,それは人類が大きな感動をもって自分たちのものとしてきたものばかりです。そういう文化を子どもたちに伝えようという授業,それは本来たのしいものになるはずです。その授業がたのしいものになりえないとしたら,そのような教育はどこかまちがっているのです。
子どもたちが自らの手で新しい社会と自然をつくってしく,そういう創造の力を育てようというのなら,なおさら,その授業はたのしいものでなければならないはずです。たのしい創造のよろこびを味わうことなしには創造性など発揮できないからです。だから私たちは,「今なによりも大切なのは,たのしい授業を実現するよう,あらゆる知恵と経験と力とをよせ集めることだ」と考えるのです。
「わかる授業」でなく,「たのしい授業」を実現するためには,いまの子どもたちに「なぜ,何を教えようとするのか」というところまでたちかえって検討することが必要になってきます。だれかから与えられた教育内容や伝統的な教材をそのままにしていたのでは,たのしい授業を実現することは困難なのです。
改めて思いなおしてみると,「これまでの教育内容は,長い間のエリート中心教育の伝統の中で,基本的に差別選別のための道具として工夫されてきたものがしっかりと定着してしまった。だから,そのような授業はなかなかたのしいものとなりえないのだ」ともいえるのです。
私たちはそのような教育を根本的に問いなおすためにも「たのしい授業の実現」という視点を大切にしたいのです。そしてこれまでの日本や世界の教育を支配してきた教育のワクをとりはらって,発想の転換をおこないたいと思います。自由に大胆に考え,教育の理想を高め,教材の質を向上させていきたいのです。
幸いなことに,私たちはすでに,授業の内容や考え方を根本的に改めると,これまで考えられもしなかったたのしい授業が実現しうることを見てとることができました。仮説実験授業の授業書やキミ子方式の絵の授業は,とくべつ有能な教師でなくても,また法外な努力をしなくとも,ひと通りの勉強さえすれば,だれでもたのしい授業ができる道をひらいてきたのです。だから私たちは未来を明るく展望しうるのです。だからこそ私たちは「いまこそたのしい授業を」というのです。
たのしい授業というものは,教師がいくら情熱を注いだからといって実現しうるものではありません。その教材にたのしい授業を保証するような内容がないのに,熱意だけをふりかざすと,かえってその授業は重くるしいものとなり,耐えがたいものとなることもあります。教育には教育の,授業には授業の法則性があります。冷静にじっくりと,その授業の法則性を追求していつてはじめてたのしい授業が実現できるようになるのです。だから私たちは,単なる思いつきでない,たくさんの人びとの授業実験の結果「これならだれでもたしかにたのしい授業ができるようになる」というような授業書や授業案を(雑誌『たのしい授業』に)次々と掲載していきたいと思います。
少しでもたのしい授業が実現しうるメドがついたら,そういう授業を追求する努力はとてもたのしいものとなってきます。そして,教師が余裕をもってたのしい授業を追求していくことができるならば,その追求の成果はいよいよ大きいものとなるでしょう。
(雑誌『たのしい授業』(仮説社)創刊の言葉 より)